人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉
ジョックストラップという存在
読者の皆さんはもうお気づきだろうか。この〈花鳥風月編〉の「調子を上げるパンツ」のテーマの確信――つまりその最大の効果を上げるパンツが、ジョックストラップ(jockstrap)なのではないかと私が述べつつある――ことに…。
ジョックストラップは、ポーチとストラップによって局部と臀部の揺れ動きを抑える、「スポーツ用サポーター」でありながら、特に近年では、おしゃれなスタイルのそれが別の意味合いを持ってパンツ界を蹂躙しつつある。これ以上のセクシーさはないという意味合いで今そう述べた。
従来より、ジョックストラップは、“ケツワレ”ショーツともいわれ、卑猥なアイテムとして蔑まれてきた面もある。しかし、その実相は時代の中で見事に却下され、男性にとってジョックストラップを着こなすことが、最大のダンディズムではないかと思うくらいに、現代では少数派の域を越えて推移している。
男性にとってジョックストラップを着こなす条件は、ただ一つといっていいかもしれない。それは、「ヘアを極力除毛する」ということである。
ただし、ここではまだジョックストラップを取り上げない。
東出さんへのパンツ論
なぜおしゃれを否定するのか
前回⑨の「思うところのパンツと東出昌大さん」では、ハンターと変幻した俳優・東出さんが、少なくとも下着に関しては、おしゃれの通念にほとんど無頓着であることが判明した――ことを告げた。
彼自身のきわめてナチュラルな思考のもと、パンツがヨレヨレ穴空きになるまで穿き続け、もはやその実体が「ターザンの腰巻」ぐらいであってもかまわないのだという結果が表面化したことになる。
私の最初の想像では、そんな感覚ではなく、ハンター東出さんはこんなパンツを穿いていてほしかった。
「ターザンの腰巻」のように、野性的な香りのするショーツを自分で着こなしてほしかった。パンツを放置して、ヨレヨレ穴空きになって「ターザンの腰巻」になるのとは全く意味が違うのだ。
アンダーウェアがその人の活動の「主体感覚となるもの」=アイデンティティとなるものであることが重要なのだ。
「狩猟」の活動ならば、動きやすく、通気性に優れた機能をもち、それは少し長めのスパッツか、逆にショーツかという選択肢が考えられる。
生地に穴が空いたから、結果的に通気性がいい――という話ではない。彼にとって、おしゃれの通念が通用しないのが問題なのだ。
本当に全てのアイデンティティをかなぐり捨てての「世捨て人」なら、なぜ都会の芸能活動を今も続けているのだろうか。半身であることになんの問題もない。であるならば、現代下着をないがしろにし、否定するという態度は、自らの活動へのいい加減さを物語っていることになる。
ただしそこは、文明社会の、いわば資本主義経済に対する否定的な態度と受け取られかねないけれども、私はそうではないと思っている。
狩猟はおしゃれへとつながっていく
古代の狩猟民族は、祀り事の儀式で集団を束ね、組織化し、その習俗性の中に規律(掟)を立てていった。
本来的には、その祀り事の装飾規定の中から、おしゃれの概念が生じてくるのだから、おしゃれを否定するのは、集団的「狩猟」生活の大原則を否定し、掟破りの個人主義を規定することにつながりかねない。
ここは述べておきたいが、ハンター(狩猟)は、本質的に単独行動を重んじない。
東出さんの「ターザンの腰巻」ほどでよかろう的な、単純な発想の結果としてのヨレヨレ穴空きは、本当に以外な結末であったといえる。
彼はpatagoniaのブランドのパンツを穿いていた。
だが、それがブランド物である必然は全くなかった。スパッツやショーツなんて穿かない、「普通のパンツでいい」というのなら、機能的なグンゼのボクサーブリーフをおすすめする。
そのグンゼのパンツが、コットン100%であっても、アルゴフォルムカットでフィット感が抜群であっても、東出さんに通用しないなら、話は別だ。布切れを腰に巻いているだけでいいなら、本当にそうすればいい――。
もっと啓蒙すべきなのである。パンツは知性と個性を育む最高のアイテムであると。
普通のパンツなんて無い論
長く「人新世のパンツ論」をやっている私からすれば、芸能人がヨレヨレで穴空きパンツを穿いているというのは、忌まわしい事件としかいいようがなかった。
それはブランドの否定であり、下着機能としての否定であり、かっこよさの否定であり、おしゃれの否定であり、自分自身の《男性部》の否定である。
耳を澄ませば聞こえてくるだろう。自分のチンコが嘆いているではないか。〈なんで俺はこんな穴の空いたパンツに覆われて蔑まされなきゃいけないんだ?〉――。
しかもそれは単純に、みすぼらしさを通り越して、「不潔」といわれかねないのだ。男の「調子を上げるパンツ」からは程遠い。
しかしその点においては、私は彼を弁護しておきたい。穴は空いているが、何度も何度も洗って洗って洗って、ヨレヨレになった結果なのだと。決して、洗濯しないでパンツを穿き続けている不潔男ではないのだと。
ともあれ、何も考えちゃいないから、男はつまずくのだ。
狩猟と経済と東出さん
私が高校時代に読んだはずの、保健体育科の教科書をいまさら眺めたのである。
昭和61年発行の『新高等保健体育』(大修館書店)。
その教科書に、「文明の進歩」という標題の文章があった。
《およそ200万年といわれる人類の歴史は、その大部分の期間、狩猟と採集による生活であった。その間、人類は、道具の使用をしり、ことばを完成させ、火を利用し、衣服や住居をつくるなどして、きびしい自然環境のなかでゆっくりと、しかし確実に、その生活空間をひろげ、人口をふやしてきた。およそ1万年前にはじまった農耕と牧畜は食糧の確保を容易にしたので、一つの場所に多くの人びとが集まって生活できるようになった。この長い歴史のなかで、飢えと病気などのため、生存の危機にさらされることも多かった》
調べてみると、人類が直立して二足歩行し始めた200万年前の世界人口は、たったの10万人だったという。
10万人というと、昔私が好きだったプロレスの試合で、東京ドームに珍しく「6万人」ほどの観客が集まったことがあり、その時見たのは、このドームの中に「6万人のヒトがいる」という景観的事実であった。
200万年前の人類は、東京ドームに集まった「6万人」の、2倍にもならない数しか地球上に存在しなかったということになる。考えてみると驚くべきことではないか。
人類史をふりかえってみた時、その大部分の活動は、狩猟(漁)と採集であり、変革的に文明化されていく農耕と牧畜であることは、ほぼ間違いない。人と人とが出会う機会は、今よりも遥かに少なかった。
狩猟と採集という行動意識は、少なくとも私たちが生存する世紀まで、一人ひとりに脳化されてきたことになる。そうした最も根源的な生活様態に溶け込もうとした一人が、東出さんであった。
まず何より発見できたのは、どこで暮らそうがなんだろうが、パンツはパンツだった。
「私が穿いているパンツ」は、都会で暮らそうが、田舎で暮らそうが、山男になろうが、環境で変化することはほとんどなく、その人の通念と行動様態における「普通のパンツ」という思考である。行動意識が変わり、生活環境が変わっても、自分の《男性部》は何も変わらないのだから、同じ嗜好のパンツを穿く。そのことに気づくべきであった。
たいへん恐縮であるが、あえてきついことばで東出さんを表現してみる。
- 男の後ろめたさを「生き方」のかっこつけに転換していく天才
- 中身の伴わないイケメン志向で自家中毒に陥った男
- 家庭内の情愛を感じない、卑劣で傲慢なお坊っちゃま
- なっちゃいないアレでなくてはならないはずなのに、今日もムクムクとそちらは元気であり、性欲だけは依然として快活である人
- いったんはダメな大人の烙印をおされ、自意識過剰気味な発想で逆転劇に成功した男
しかし、どれも私の思い過ごし、誤解だったのだ。
いや、その人に向けられる一般大衆の誤解というものが、はっきり誤解だといいきれるだけの材料が、私にはないという意味である。
ただし、親しい人たちをひどく傷つけ、その人たちの生活圏から逃げてしまったという点に関しては、否定しようのない事実であり、被災難者の傷は癒えていないではないかと想像する。
こんなことはいいたくないが、それに対する弁解じみた策略のアイテムが、ヨレヨレ穴空きのパンツだったとしたら、全てがひっくり返ってしまう。真実に生きてほしい。だからせめて、カメラの前ではいつでも、かっこいい「ターザンの腰巻」を下半身に身に付けていてほしかった。
自分のパンツは人生の鏡
世の男性の大部分は、なかなか自分のパンツを買い替えない。月収年収を考慮して、たまに自分好みのパンツを、「買う」か「買わない」か決める。
ボーナスが出たタイミングでようやく買うのかもしれない。だから、男性用のパンツが売れているか否かで、不況かどうかの判断ができる。
それは、アメリカの元FRB議長アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)氏が、“男性用下着インデックス”として画期的に示したことだった(「人新世のパンツ論①―プロローグ」)。「男性下着指数」ともいう。
不況とか、月収年収による頃合いは別にして、男が何らかの理由で自信を失った時、あるいは挫折を味わった時に、おそらく「調子を上げるパンツ」を穿く気分にはならないのではないか。
その観点がきっかけで、今回、東出さんがバッシングを受け、都会暮らしから半分だけ「世捨て人」となり、山へ転身したその心持として、どんなパンツを穿いているのかをさぐった次第である。結果は、意外なほど理知的なものではなかった。
『桐島、部活やめるってよ』の映画に出演していた東出さんが紆余曲折――本当にガラガラポーンの紆余曲折で――山にこもって野営生活しているなんて、あの頃は想像すらできなかった。
人はたいてい、よほどのことがないかぎり、ライフスタイルを変えたりしない。だが、東出さんにはそれが起きた。
それでもなお、自分好みのパンツが、生活様態に合わせる形で突然変わった、変えたという話にはならなかった。
山での生活を続ける以上、最も困窮してしまうのは、食糧であり、下着なんて二の次三の次だ。
しかし所詮、日本列島の島国では、山もあれば海もあり、都会もあり町もある。決してアニメの世界のような、ターザンの腰巻に変化していかないことは、実態としてよくわかった。
あくまで「普通のボクブリ」だったところに、この話のつまらぬオチがあるのだが、穿いているパンツへの愛情という点では、いささかこちらと食い違いが生じた。
下着のマイナーチェンジへの精神的落差は、もっと平素の違う部分にあるようで、それは、東出さんのような野営生活云々ではなく、男の泣きどころ、それはED(勃起不全)しかないのではないかとさえ思う。このことは特に覚えておいたほうがいい。
話を冒頭部分に戻す。
ジョックストラップのパンツ(サポーター)は普通のパンツではない。日常生活では、穿く機会が全くない。だがそんなことをいっていたら、いつまで経っても「調子を上げるパンツ」にはたどり着かない。
21世紀の私たちは、平素において、「普通のパンツを穿くべきで、普通ではないパンツは穿くべきではない」という、頭ごなしの思考や偏見的な啓蒙を、即座に捨てる必要がある。多様なセクシュアリティの在り方を容認し、偏見を持ったりしないこと。むしろ好意的であること。
自分自身が穿くパンツの中で、差別のない世界をつくろう――と思ってほしい。そのためには、パンツに対して正しい見識と、その応用性の拡張の意識を持つことが大事だ。
そういったことから、まず普通(ノーマル)の服装、普通の下着という概念はいったん手放しておいたほうがよさそうである。