⑤見せたくないものの領域

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人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉

ジェントルマンでいたいなら、パンツに学べ

 
 adidasのジャージの上下を買うにもお金がいります。アンダーウェアのパンツを買い替えるのだって、当然投資が必要です。
 
 今年のはじめ、このシリーズのための“パンツ撮り”をするカメラチェックの段階で、これはもううっかりというか、つい出来心といっていいのだけれど、その日一日穿きっぱなしだったパンツ姿のまま、カメラのシャッターを切ってしまったのだった。
 私がこういう撮影をおこなう時は、必ず自前のガチで穿いているパンツはさらさないというか、撮らないことにしている。一種の美意識に違いないが、手に入れた新しいパンツだけ撮るようにしていたのだ。
ところがその日は、どういうわけだか、手順を踏まずにガチで穿いているパンツを撮ってしまう。それでカメラチェックをやってしまったのである。
 

穿きっぱなしたままの状態のパンツ姿

 
 実に稀なことだった。美しくしようがない。カルバン・クライン(Calvin Klein)のブランド名を模倣した海外製のパンツで、確かにカルバンでなくとも、穿き心地は良かった。そして何より、思いの外長く穿き続けているのだった。それはもうすっかり買い替えなければならないくらいに、生地は傷んでおり、一言でいってみっともないパンツ。だから心情的に、使い古しのパンツは絶対に撮りたくないのである。
 
 「見せたくないものの領域」というのがある。
 あくまでそれは、自分本位のタブーのあり方を示したものであるから、このサイトの「人新世のパンツ論」を偶然閲覧してしまった者からすれば、どちらにしたって、〈男のパンツなんて見たくもないわ〉と憤る気持ちに変わりないかもしれない。
 
 あくまで個人の「見せたくないものの領域」に限定して考えてみると、男女関係なく、アンダーウェアは「見せたくないものの領域」を霞む話なのだということに、あらためて気づかされる。
 今回は特別、普段穿きの、「見せたくないものの領域」に呈するパンツ姿を、あえて作品化して見せているわけだけれど、おしゃれの感覚からすると、着衣しているアンダーウェア丸ごと「見せたくないもの」とシャットアウトするよりも、アンダーウェアの、どの部分においては、見られてもかまわないくらいのラインがあったほうが、身体的なふるまいの様相をおおらかに解放できるのではないか、と私は思うのである。だって、誰だってパンツは穿くのだから、私はここだっておしゃれなのよとアピールしたほうが、ハイセンスではないか。
 
 ところで、「人新世のパンツ論」の前シリーズでは、それこそ数十のパンツを穿いて撮影を行い、その姿を記録してきた。いってみれば一般人の人並な感覚である、「第一の羞恥心」は飛び越えた形での“パンツ・アップ”となっていた。
 そもそも〈自分のパンツ姿をさらすのは恥ずかしい〉と思うのは当然で、恥ずかしいが見せることに慣れてしまうと、羞恥心は薄れていってしまうものなのである。
 
 「見せたくないものの領域」に踏み込んでしまった――という感覚。この場合は慣れの問題ではなく、今まさに正真正銘、生活のために身に着けていたパンツを撮ったため、飾りにもならないガチな部分を露出したような感覚に陥ったのである。これがつまり、一般人の人並な感覚でいう、「第一の羞恥心」の正体だったのではないか。
 

テスト撮影時のカットだから構図が良くない

 

見せたくない行為の再定義

 この場合の、「恥ずかしい」や「羞恥心」をいい表すと、
①人に見せたくない
②いま直に穿いている、使っている状態のパンツを見られるのは嫌だ
 
 小学生の時、水泳の授業が終わって教室に誰かのブリーフが落ちていたことがあった。「これ、誰の?」
 そう声を上げても、誰もそれに取りに来ない。そんなわけはない。男子の誰かが穿いていたパンツであり、いまそれが教室内に落ちているのだから、穿いていない者は名乗ってもよさそうなのだが、いくら待ってもパンツの主は現れない。
 やがてそれは担任の先生の意図によって「落としものコーナー」の箱の中に入れられてしまった。だが、翌朝見ると、もうそこにあのブリーフは消えて無いのだ。誰かが気づかぬうちに持って帰ったのだろう。これも「羞恥心」からくる行動である。
 
 家庭のパパでも息子さんでも、お風呂上がりにパンツ姿でウロウロするのは、自分なりにオッケーだと思う人は少なくない。それはつまり、パンツがきれいだから。
 しかし、入浴前に、一日穿き続けたパンツ姿で部屋中をウロウロするのは、自分でも嫌だし、恥ずかしいと思うし、そんなことをしたらママや娘さんに「デリカシーがない!」とこっぴどく叱られるだろう。決して笑い話では済まされない。
 
 この場合の違いはなにか。
 まさに、穿き続けて汚れているかもしれないという懸念が生じた場合には、「恥ずかしい」と思う。「羞恥心」である。どこそこで着替えるため、他人にパンツ姿をさらさなければならない時、そそくさとアウターのパンツを穿いてなるべくアンダーウェアを見せない、見せたくないと思う感覚こそ、「第一の羞恥心」なのである。
 つまり、汚れたパンツを脱ぎ、大浴場に全裸で駆け込む時の爽快感というのは、そういうことなのだ。汚いものからの解放。それを脱ぎ捨てたという達成感。脱ぎ捨てた後の裸の姿は、むしろあまり恥ずかしくないと思うのはそのせいではないだろうか。

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