⑥パンツとヘアの関係

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人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉

ジェントルマンでいたいなら、パンツに学べ

 

萌えさかるヘア

 
 男性の場合、おおむね、小学生の高学年頃になって性毛が生えてくる。チン毛のことである。だが最初は、誰もそのことを打ち明けたりしない。
 
 最初はチョロチョロと生えてくる。そんなことはあえて説明しなくても、みな経験してきてわかっているのだが、そのうちびっしりと性毛が「陰毛」と呼ぶに相応しいくらいにはびこるようになり、矢も盾もたまらなくなって友達に打ち明ける。「おまえ、どれくらい生えてる?」。それはもう気になって気になって仕方がないのだ。
 
 大概の場合、お互いにざっくばらんに打ち明け、溜飲を下げる。みな生え具合も同じなのだということがわかると、安心するものなのだ。
 そうして古き善き小学生時代の、ツルっぺただった頃を懐かしく思い起こす。あの頃、俺は子どもだったなあ…。子どもたちはすくすくと自分を見て成長していく。
 

私の中学1年の頃。既にヘアは繁茂していた

 

衣装のショートタイツが恥ずかしかった

 ここからは一般論ではなく、私の話をしたい。
 
 盛んにそれが繁茂していたのは、やはり20代の頃だった。男性ホルモンが盛んであったから、下腹部・大腿部にはわっさわっさとヘアが充満していた。
 その頃、役者の真似事をしていた私は、舞台公演のある役の、ある場面で、「上半身裸で下半身は青色のショートタイツを穿く」――ということになり、制作の段階では、その衣装のショートタイツ(仮縫い状態)を何度か試着する機会があった。実をいうとそのショートタイツは、既製品ではなく、ハンドメイドだったのである。
 
 こっそりと試着してみたところ、思いがけずサイズが小さい。ぴっちりとしすぎている。嫌な予感がした。
 よく見ると、案の定、《男性部》がくっきりと突き出て見える。しかも、左右の横からヘアがはみ出てしまっている。私は困った。
 私は「もう少しサイズを大きくできないか」と演出に訊ねたら、そのサイズ感が相応しい、という答えが返ってきて提案は却下された。
 ともかくショートタイツをじかに穿くことは無謀だ。場合によっては、ヘアどころではない、陰嚢(いんのう)も横からはみ出そうなくらいである。なので、内側にサポーターを穿いてなんとか収めるしかなかった。
 
 公演が近くなった頃、私はヘアをある程度まで刈り込んだ。ショートタイツの横からヘアがはみ出ることがないように留意した。中のサポーターも当然小さいもので、かなり窮屈だった。
 そうして何日間か、ショートタイツを穿いた姿を観客にさらし、公演は終わった。全ての本番は事なきを得た。
 
 しかしながらその間、一日の公演が終わるたびにみじめな思いをした。内部のサポーターに半日以上丸め込まれていた《男性部》は、この世のものとは思えないほど小さく萎縮し、ツバメの巣かとも思えるようなひとかたまりのヘアの中に囲まれ、なんら誇示する威力を失って収まっていた。無惨、哀れ――。
 
 最初から全部剃ってしまっていればよかったのに、私のその頃の心情としては、そういう行為は選択肢として全く無かった。自身のヘアを剃るということは、感覚的に、自己の身体が周囲とは違って孤立してしまうのではないかという怖れがあったのである。
 

ヘアレスの時代


 逆に今は、ヘアの繁茂時代を懐かしく回想してしまう。
 いうなれば、「ピュービックヘア・ノスタルジア」なのである。いったいどういうことか?
 
 既にこのシリーズの最初のほうで、私はカミングアウトしている(「③さらにもっとプロローグ」)。
 かつて繁茂していたヘア、すなわちピュービックヘア(陰毛)は、すっかり剃ってしまっていて、どこにも見当たらない。
 ペニスの周囲、陰嚢、臀部、肛門部、蟻の門渡りを覗いたとしても、ヘアは1ミリにも満たない状態になっている。
 日々こまめに剃ってしまっているので、いわゆるギャランドゥ(腹毛)といったような旧時代の「男っぽさ」の勲章ですら、そこには存在しないのである。
 
 ここは潔く、画像で確認していただいたほうが早い。
 

2013年頃の私。ヘアが存在していた

 
 およそ13年前の写真が残っていた。
 私自身の身体である。上半身から下腹部にいたるところ、ありのままの状態で、乳首やヘソの下、そして陰部におけるナチュラルなヘアが確認できる。
 遡れば中学・高校時代から成人となって以降、ほんの4年くらい前(2022年)までは、このように私の身体にはヘアがずっと存在し続けていた。これはそういうヘアの痕跡(記録)写真なのである。
 

ヘアの面影はどこにもない今の私

 
 ところが、今は違う。
 厳密にいうと、若干脇毛がチョロチョロと生えていて、脛毛もわずかに残ってはいる。だがそれ以外のムダ毛は、ほとんど剃ってしまっているので、ヘアレス・ボディといっていいのではないか。
 

パンツとヘアの関係

 
 この〈花鳥風月編〉のテーマは、「調子を上げるパンツ」とはいったいどんなものか?――を探ることだ。
 その一つの前提として、ピュービックヘアの存在の有無によって、パンツ選びの条件が変わってくるのではないか――という推論が成り立つ。
 
 わかりやすく説明しよう。
 ヘアが下腹部一帯に、雑木林のように繁茂している人の場合。そういう人が、もし細くてエグい角度のショーツを穿きたいと願っても、なかなか現実的には厳しいのではないか、ということだ。
 なぜなら、先述の衣装の話と同じで、わっさわっさと繁茂した雑木林が、ショーツの中にすべて収まるふうにはならず、必ずショーツの周縁でボサボサとしたヘアがはみ出ることになるからだ。
 
 この場合、この無碍な着こなしは、おしゃれとして成立するのだろうか。
 
 確かに昔は、それが「男っぽい」ということで一定程度評判が良く、付加価値もあった。ビキニからはみ出たヘアの存在は、少なくとも自己肯定感をすこぶる燃え上がらせたのである。
 しかし今は、逆である。「男っぽさ」の押し付けがましい様相は、相手を重んじるよりも自意識過剰だと否定され、嫌われる風潮がある。つまり、はみ出しっぱなしのヘアがかっこいいわけではないのだ。
 
 もちろん、〈見た目なんてどうでもいい、俺はショーツを穿きたいんだ〉という人はいっこうに構わないと思う。それを素直に穿けばいい。
 とはいうものの、それが「調子を上げるパンツ」であるかといえば、そうではないと、はっきり申し上げておく。
 
 配慮に欠ける身勝手な着こなしは、全体の調和を喪失し、品位を下げ、逆に調子を下げるパンツ(=運気を下げるパンツ)となってしまうだろう。別にパンツ自体が悪いわけではないのだけれど、ショートタイツを穿きたいなら、ヘアはそれなりに剃るべきである。
 
 ヘアがナチュラルに繁茂していれば、パンツの選択肢はおのずと狭まってしまう。そのことは、頭に入れておかなければならない。その人の調子を上げる延伸度が、その分抑えられてしまうとも考えるべきだ。
 

ビキニやショートタイツを穿きたければ、剃るべし

 

断行せよ

 ヘアは、剃ってしまっていい――。
 
 直観で私は、そのことに気づいたのだった。いろいろなパンツを穿く機会(=選択肢)を、今さら奪われたくない。それと単に、ヘアがむさ苦しい存在であるとも思っている。
 
 ヘアの繁茂については、男の領分の「男っぽさ」を際立たせる一要素として、旧時代の様相を観察確認することができる。
 
 例えば、1991年に写真家・篠山紀信さんが撮影した俳優・本木雅弘さんのフルヌード写真集は、その時代をよく表している。本木さんの黒く濃厚に繁茂したヘアは、彼の大人としての「男っぽさ」を象徴していたし、大衆からも喝采を浴びた。
 強いていうなれば、成長期のおけるヘアの発育とその存在感は、その人のゆるやかな大人への歩みを感じさせる意味で、確固たるアイデンティティととらえることができる。
 
 だがそれ以外において、成長期の存在感という役目をとっくに終えた30代からのヘアの存在は、ただただ憎悪でしかない。だらけたものの象徴としてしか映らないのだ。だからいっそ、剃ってしまったほうが、新しい自己肯定感を発見できるチャンスだ、とさえ私は思う。
 
 私は、以前の繁茂時代に戻ろうという気はさらさらない。
 《男性部》に生えるヘアは、有っても無くてもいいし、有って得することもなければ、無いからといって不自由なことになるものでもない。
 
 ならば今、そこにヘアが無いのだから、無いままケアしていったほうが楽だと私は考える。自由なパンツ選びができる今の状態こそ、自己肯定感を高め、「調子を上げるパンツ」との出合いの機会が増すであろうとの期待感が持てる。
 
 私は、そういう幸福への道を選んだのである。

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