人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉
それは数年前のこと。
60年代から70年代にかけて、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)さんが心酔したとされるアメリカのヒッピー御用達雑誌「ホール・アース・カタログ」(“Whole Earth Catalog”)を、私はしげしげと眺めていたのだった。
「ホール・アース・カタログ」は、野営生活に必要な機械、器具、農具、部品、原料などの商品が掲載されている通販カタログだ。
確たるマイブームが勃興していたのだった。ヒッピー文化についてである。
ヒッピーというカテゴリーが私の中でトレンドとなって、その強い関心が1969年の伝説のロック・コンサート「ウッドストック・フェスティバル」(“Woodstock Music and Art Festival”)の記録映像の関心に流れ込んだのだった。
すなわち、ヒッピー文化を通じて、サバイバル生活だとか、野営生活といった志向に目まぐるしく関心を抱いた私は、それ自体に疎いにも関わらず、子どもの頃、ボーイスカウト(スカウト運動)の少年少女たちに憧れを抱いていたこともついでながら思い出したのである。彼らの制服姿はまことに格好良かった――。
野営の狩人・東出昌大さん
話はここからだ。
そんなような関心が頭の大部分でひしめき合っていて、ふとネットメディアに目をやると、俳優・東出昌大さんが“山ごもり生活”を始めた云々のトピックが駆け巡っていた。
そこで私の頭の中のヒッピーと、東出さんが行動を起こし始めた“山ごもり生活”=野営生活とがぴったりとリンクしたのだった。
おお、彼も現代のヒッピーではないか!!!――という感動があった。
かつて芸能界で“イクメン俳優”として人気を誇っていた東出さんが、2020年に激しいバッシングを受け、その人気は凋落した。逃げ惑うかのようにして山暮らしを始めた――という当時のトピックを、皆さんは覚えているだろうか(「男のサガを売りにする男たちでバグる世界」参照)。
都会での生活を半ば捨て、山で狩猟と採集による野営生活にのめり込んでいくであろう東出さんの姿を想像してみたら、もうそれは“世捨て人”として、私の中で強烈な世界観を築き上げてしまったのだった。むろん一方では、あらゆる意味でのリスクを伴う行動だとも思った。だが彼に、その迷いはなかった。
私の強烈な世界観の中では、いくつかの謎を、東出さんは提示してくれた。
ハンター東出さんにふさわしいパンツ
彼はいったいどんなパンツ(アンダーウェア)を穿いているのだろうか。
そもそも東出さんは、本気でそんな野営生活を軸足にした生き方を、望んでいるのだろうか。あくまでしたたかなメディア戦略なのではないか…。
そういう疑念が私の中にあった。だから彼は、あらゆる方面のカメラの前で、それらしい容姿をコーディネートして着込むに違いないと――。
であるならば、野営生活にふさわしいパンツ(下着)とは、いったいどんなものか?
野性的な腰巻ふうてい
まず、最初に想像したのは、1999年のディズニー映画『ターザン』(“Tarzan”)の主人公ターザンのような、フンドシ風の茶色い腰巻であった。
いや、あれは普通にフンドシなのだ。東出さんがフンドシを身につければ、それはそれでかっこいいだろう。
こういうのはどうか。旧時代の大陸の馬賊を想起させるような、勇ましい皮革か綿製の股引、あるいは短めの猿股――。
しかしこれは、極寒の生活を思わせるので、東出さん的にはあまり好まないはず。
もっと気軽で動きやすいパンツということであれば、ジョックストラップ・ショーツはどうか。これも《裸族》を思わせる、ハンター御用達のイメージではないか。
このようにして私は、東出さんに関して無知な想像=妄想に駆られ、飛躍した。それらは飛躍の産物以外なにものでもなかった。
しかし、想像はとどまることをしなかった。もっともっと細部を練り上げていった。
――彼は都内から車を走らせ、某田舎の山道をのぼったりくだったりし、自然の領域に近い場所で野にこもるだろう。用意周到にハンターとしての服装を着込んでいるということは明らかであり、その下のパンツはすこぶる野卑なもの。それは皮革でできたペニスカップ。
ペニスカップ。
なぜハンターがペニスカップを身に付けるのかの理由付けは特になく、それまで見たことのある映像や写真のイメージをつなぎ合わせているにすぎなかった。
多分それはきっと、『世界ウルルン滞在記』というテレビ番組の影響だろう。あの番組では、ドキュメンタリーな様相の中、活躍の芽を出し始めた若手俳優たちが、次々と見知らぬ奥地へと駆り出されていったのだ。
私の野卑な想像はどんどんとふくらむ。
東出さんはペニスカップを付けた全裸で、山の奥地へ分け入り、なめした皮革が股間に食い込みながら、ぷりっとした臀部を揺らしつつ、野山を駆け巡る。そしてきりっとした表情で銃を構え、獲物を狙う。
そうして獲物を射止めた瞬間に、彼の肩が震え、鋭い眼光で遠くを見つめる。銃口はゆるやかに暗がりの地べたへと落ちていった。
そんなふうにして、ハンターの男たちが山野でどんなパンツを穿いているかなどの想像を、かつてしたことがなかった。
しかし、東出さんの野営生活の報道で、彼がこの先どんな生き様を見せるのかという関心が強くなり、同時に彼は、これからいったいどんなパンツを穿いていこうとしているのかの想像=妄想もまた、私の中で栄えるに違いないと思った。この時ばかりは――。
どちらにしても、それだけは知っておきたいという欲求は栄えていたのだった。
そもそも、都会ぐらしを捨てた人間が、最も古代人らしい生き方を踏襲し、ヒッピー的な、スカウティングな野営生活の中で、下着というものがその人にとってどのような位置づけになるのだろうかという疑問は普遍的なものであった。
それは果たして、ハッピーな心持ちに近いものなのだろうか。そのところが知りたかったのである。
パンツにおける東出ショック
山での生活が、純粋に精神的かつ生理的に自然体であるならば、逆に超都会的なパンツを穿いていたら、その真実味は薄れるのじゃないのか、という疑念があった。メディア戦略としては。
やはりそこでは、カルバン・クライン(Calvin Klein)では似合わないし、せいぜいユニクロであってほしいとも思った。
野営へのメディア戦略をより効果的に見せるため、不都合なものは変えていく。転換していく。私はこう想像したのである。
東出さんが町に買い出しに行った際、例えばヨークマートのようなスーパーで、グンゼの2枚セットとかのトランクスなりブリーフを買うだろう。それはおしゃれ優先ではないかもしれないが、そこそこおしゃれでありつつ、品質の良いものを選ぶに違いないと…。
いや、しかし――こんな言説もある。
というか実際、私の想像をはるかに超えていた。
ABEMAショック
ABEMAの『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』に出演した東出さんは、南米ペルーの町の道中にて、自身が着ているヨレヨレの汚いTシャツを暴露されていた。
別のアフリカ旅の回では、湖でこれから泳ごうとする東出さんのパンツが、顕著に「穴が空いている」のを目視できる。既に劣化したパンツを、東出さんはずっと穿き続けているのだ。
しかもそのパンツは、なんとpatagoniaのブランド物であった。
東出さんは下着に全く頓着しない人だったのである。
ふれることのできないパンツ
彼の野営の姿を追いかけた、ドキュメンタリー映画を観てみた。
エリザベス宮地監督の『WILL』(2024年)である。
その映画では、自然のものを必ず殺生しなければならない人間生活の掟、そこから生じる東出さんの心の葛藤、刹那な想い、など、逆説的に明日への希望が見えてくる気配が感じられる構成になっていて良作と思えた。
私がいま語りたいのは東出さんのパンツのことであるが、残念ながらその映画の中では、彼の下着にまつわるシーン及びショットが無かった(adidasの短パン姿は映っていた)。
先のABEMAのパンツショックがここにも及んで、さすがにブランド物のパンツがヨレヨレで穴が空いているのを見せるわけにはいかなかったのではないか。
都会でのダンディズムを捨て、野卑な山男と変身するための魔法は、彼には通用しなかった。
というか、私の考えが間違っていた。ターザンのような腰巻を着ようという意識的なものではなく、普段穿いているパンツがヨレヨレで穴空きであるということは、もはや無意識下でただナチュラルに、ターザンのような腰巻――腰に巻いたただの布切れ――になっていた、ということなのだ。
だから、私の想像の根幹部分は決して間違っておらず、野営生活をおくる者にとって、下着とは、パンツとは、単に身にまとっているものであればなんでもいいくらいのものなのである。
その映画のシークェンスで、ほんの一瞬、客室のベッドの上に、白いジョックストラップのようなものが見えた気がした。おそらくそれは、私の気のせいであろう。