人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉
「⑬トランクス派はピューリタン?」の回では、トランクスのデメリットについて、《坐っている状態だと、ふぐり(陰嚢)が見えてしまうことがある。それに付随して、蟻の門渡りも見えてしまう》と書いた。
それはもっともな見解だといわざるを得ない。ほかのどんなパンツの種類でも、穿いているものを自分でずらさない限り見えるわけがない「それ」が、トランクスだと見えてしまう可能性が意外と高いことは、トランクスを穿いた経験のある男性ならおわかりだろう。
坐っている時、あるいは横になって寝ている時、両脚を広げていたら、足口(脚を通す開口部)からポロリとふぐりがはみ出て見えてしまい、その奥の「それ」までもが覗かれてしまうという小っ恥ずかしい事態――。
ふぐりと荒れ地
私は過去に2度、友人の「それ」を見たことがある(と思い込んでいた)。
工業高校時代――。
水泳の授業が終わり、教室で制服に着替えていた時のこと。クラスメイトのある男子が、柄物のトランクスを穿いているのが見えた。そうして彼が机の上であぐらをかいたのだ。するとたちまち…。
見えてしまっていた。モッソリとうろたえる小ぶりのふぐりが、茶色く皺くちゃになって収縮していて、荒れ地のごとく薄暗い茂みになっていた。
2度目は、20代の頃。
私の家の部屋で、すやすやと寝ている友人。薄手のシーツにくるまりながらも、片足だけおおっぴらになっていた。
穿いているトランクスに、すきま風が吹いた。足口の奥には、スライムベスのような生意気で柔らかな干し柿の形をした陰嚢と、深々とした藪の「それ」がひしめいていた。
そんな秋の季語を用いて俳句にしたくなるような風物が、私の目に映ったのだった。
ああ、穴賢(あなかしこ)、おびえ騒がせたまふな。
「それ」は、蟻の門渡り――。
尤もその時私は、「それ」がひしめくものだと、誤解していたのだが…。
アントンと蟻の門渡り
瀨々敬久監督の映画『アントキノイノチ』(2011年)は、心を閉ざした青年(岡田将生)が遺品整理業の勤務先で出会った同僚の女性(榮倉奈々)と日々対話し、過去と向き合いながら、生きることの大切さに気づいていくドラマである。
ストーリーの中、高校時代に登山部だった彼は、心情面で対立するある部員と「蟻の門渡り」を登る。
そう、そこでも蟻の門渡り――。
かつて作家・開高健氏が書き下ろしたエッセイ(「開高健『開口閉口』―アリ釣りとオスとメスの話」参照)の中で、やたらめっぽう連呼されていた「蟻の門渡り」が、映画『アントキノイノチ』を観て、再び頭の中で明滅したのである。
それぞれ違うものを指しているのはわかっていた。だがその時私は、片方の「それ」を、大きく勘違いしていたのだ。
もうなんだかわからないから、早く教えて! とせがまないで。わかりました。いま、ご説明いたします。
蟻の門渡りは会陰のこと、だけれど…
蟻の門渡り。“ありのとわたり”と読んでいただきたい。
『広辞苑』ではこのように出ている。
《①蟻が一筋の縦列をなして行くこと。また、そうしてやっと通れるほどの狭い道。
②会陰。
③長野県戸隠山中の難所。両側が急崖の狭い尾根》
開高氏がああだこうだと述べていたのは、②の「会陰(えいん)」のこと。そして『アントキノイノチ』で登場するのは、おそらく③の、戸隠山の狭い尾根のことと思われる。
「会陰」とは何か。
同じく『広辞苑』でこのように出ている。
《哺乳類の外部生殖器と肛門の間》
女性の会陰は、膣と肛門の間(約2.5~3cm)。男性の会陰は、陰嚢の付け根から肛門まで(約5~6cm)を指す。
冒頭で私がトランクスを穿くデメリットとして挙げたのは、坐ったままの体勢でトランクスの足口から陰嚢と会陰(=蟻の門渡り)が見えてしまうことがある――ということだった。
で、私は大きな勘違いをしていたのだ。
「蟻の門渡り」は会陰のこと、とは知っていた。が、あの陰毛の毛むくじゃらの状態を、「蟻の門渡り」というのだと思い込んでいたのである。
つまり私の中の解釈では、アリがモソモソと動き回っている様子に似て、あの会陰の毛むくじゃらを「蟻の門渡り」といい、そこが無毛の人は単に会陰というだけにすぎないと――。
自分の解釈が間違っていたことは、はっきりと辞書に出ている。『百科事典マイペディア』の「会陰」にこうある。
《正中部に会陰縫線というすじがあり、(略)〈アリの門渡り〉という俗称は会陰縫線による》
この「会陰縫線」が、アリの縦列をなして行くことに似ていることから、会陰そのものを「蟻の門渡り」と呼ぶようになった。毛むくじゃらのことではなく、会陰にある縫線を指していたのだ。
「会陰縫線」がどこにあるか、どんなふうになっているか、自分のを見てみればいい。いや、そもそもあなたは、毛むくじゃらの下に潜んでいる「会陰縫線」を、今までしっかり見たことがありますか?
無毛である私だったら、はっきりとそれを見ることができるはずだ。もはや仕方がない。開放しよう。
会陰縫線は、男女問わず、ある。
男性は長いのでわかりやすい。だが女性は、会陰自体が短いので、縫線も極端に短いのだ。
戸惑うな、お尻を突き出せ
と、誰かがいっているように思った。なんどもいうように、毛むくじゃらの状態では、縫線をはっきりと見ることは難しい。
だから私だって、もう何十年とそれをしっかりと見ることなんてなかった。
たしか、子どもの頃に自分のを見たことがある。縫線を。蟻の門渡りを。大人になってセックスをするようになったって、そんなところを凝視して観察しようなんて思わなかった。もう一度見てみることにする。
あ、そうか、ちょっと待て。
ということはつまり、あいつらのふぐりの奥から見えていたのは、「蟻の門渡り」なんかじゃなかった、ということだな。
とにかくこの細い線――会陰縫線の存在が気になりだした。いったいあれは、何ものなのだ?
福岡伸一著『できそこないの男たち』(光文社新書)からその正体をつかむことができた。
会陰縫線の正体
ヒトのからだは受精後6週間くらいで、頭や目、手足、おなかから太ももなどが形作られる。その時まだ男女の違いはなく、太もものあいだに割れ目があるだけだ。
女の子の形が、生命の“基本仕様”なのだという。
その“基本仕様”の生殖器には、ミュラー管とウォルフ管というのがあって、これが膣や卵管を作り上げていくのだが、女の子の場合は、ウォルフ管が退化していく。
男の子になる時はミュラー管が消失し、残ったウォルフ管が陰唇を縫い合わせてペニスとなっていく。福岡氏はこのように記している。
《肛門から上に向かって一筋の縫線がある。それはいんのうの袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐに続いている》
卵管、子宮、膣をつくる細胞を失った「女」として、「男」のつくりかえが始まる。
それは何より、割れ目を閉じることであり、「蟻の門渡り」(=会陰縫線)はその縫い合わせの痕跡なのである。
この“基本仕様”のつくりかえ=「男になる」は、《ところどころ急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっている》といい、“基本仕様”=「女」では、「尿を排泄する管」と「生殖のための管」はそれぞれ別個になっているが、男へのつくりかえでは、「尿道」と「精液を放出する管」とが併用されるつくりとなる。借用し合う、といってもいい。
ここでようやく会陰縫線の正体がわかった。
ああ穴賢、男は女体の代用なり。
自分の「蟻の門渡り」を眺めれば、その生命誕生の神秘なる急場しのぎの不細工な決定に、身をよじらずにはいられない。しっかりとそれを眺めて、女体の痕跡に思いを馳せるべきである。
いみじくもアントンと蟻の門渡り
映画『アントキノイノチ』を観て思い出した。
この映画のタイトルは、皆さんご存じの通り、プロレスラーのアントニオ猪木さんの名前をもじったもので、映画の中のあるシーンでも、それが笑い話として語られている。猪木さんといえば、「道」のことばを思い出す。
《この道を行けばどうなるものか。危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けば分かるさ》
映画『アントキノイノチ』の冒頭では、岡田さんが演じる青年が、どういうわけだか、素っ裸で自宅の屋根の上に坐っている。彼はその高い所から、町の様子を眺めるのである。
屋根を尾根と見立てれば、それはまさに「蟻の門渡り」からの眺望である。
しかも青年は、その尾根にしっかりと足…いや違う、尻をつけて坐り、己の「蟻の門渡り」と尾根の「蟻の門渡り」とが一体化しているのである。
これはまことのことか、単なる思い過ごしだろうか。
関連記事
「〈再録〉開高健『開口閉口』―アリ釣りとオスとメスの話」